[編集] 他の価値領域と美の関係
美がよいものとされる限りにおいて、他のよいものとの関係が問われる。古代より、これは美と真あるいは善とのかかわり、あるいは美と快すなわち何かあるよいものによってもたらされる感覚とのかかわりとして問題化されてきた。
[編集] カロカガティア
古代において、価値領域の自律は自明のことではなく、むしろ逆に各価値領域の共通性が追求される事が普通であった。語源的に「美しい」を表す言葉はしばしば「良い」と共通し、現代でも多くの言語において「美しい」を示す言葉は、日常語においてはしばしば「良い」「快い」を含意して使われる。
全体にこのような価値連関において、美は善と関連付けられることが多く、道徳的なものがもつよさのひとつとして考えられる。
西洋哲学の濫觴の地ギリシアにおいてもこの事情は同様である。「美しい人」(ho kalos)は容姿の美しさよりも、その社会的地位、能力、うまれのよさを指すことばであり、「美しい人」とはポリスの市民としての倫理規範を体現した「見事な人」であった。
こうした「美」の極めて倫理的な色彩をよく表す概念が「善美」(kalokagatia カロカガティア)である。善を表す語と美を表す語から造語されたこの語は、ギリシア的人間が実現すべき理想像として提示されている。
ヘシオドスによるパンドラの神話では、この女性の容姿は女神のように美しく、心は犬のように陋劣で、そのために世に災悪kakiaが満ちあふれた(『仕事と日々』、『神統記』)。
すなわち、美が感覚的に快である程度ならば、善agathonにでなく罪悪、災悪に結びつく可能性があると考えられるので、最初は美は徳から遠いものとしていわばカロカカキアが一般に認められていた。しかし容姿でなく徳の美、精神の美を認める場合がある(「汚れも咎もなく死ぬことこそ美しい」(アイスキュロス『テバイを攻める七将』1011))。
仮にこの、徳areteとしての美をプラトンのように根拠づけ得るならば、美kalonと善agathonとはひとつになり、カロカガティアなる理念が成立すると考えられたのである。ただし、この語は、クセノフォンに由来し、プラトンにおいてはkalos kagathosなる慣用句が多用されている。
[編集] 真理との関係
また美は真理ともしばしば関係させられる。プラトンやプロティノスにおいて、美はときに哲学者(愛知者)がしるべき最高の対象とされる。
このような文脈下では、美は真と同一視されている、ないし美を知ることは真なる知識の枢要をなすと考えられている。このような場合、善と知もまた本質的には同じものであるとされることが多い。
そこから、美は独立の価値領域ではなく善や真に従属的なものであり、ここから逆に善や真を表現するために美をもちいるという発想がうまれてくる。宗教芸術や王侯の権力を示現するための装飾などは、このような美の利用といえる。


